川島 雄太郎


        4歳くらい           豆剣士       サックスやってました!

1984年生まれ、いつも仲良しな四人家族で、しっかり者の妹がいます。

私の名前はリバティー!!

川島家の皆は大大大好きだワン♪


幼少の頃、走る事が好きだった私は、

小学6年の頃から、

国立競技場で開かれる

陸上競技に夢中になりました。

 

 中学から高校まで、陸上部の短距離走者として在籍。夢はオリンピック選手・・のはずが、記録は選手のなかで中の上程度だった・・・(あ~残念っ)。

 

走ることが大好きで、その後社会人になってからもジムで身体を鍛えながら、日々走ることのできる身体を維持していました。

 ところが、私が大学病院の手術室で機材を扱う助手として働いていた社会人2年目の夏に、予想外のアクシデントが発生!!突然、今まで元気だったはずの腰に違和感が生じ、その3日後に右足片側麻痺により全く自力で立てなくなるという信じられない状態に・・・。

 

大学病院で腰椎椎間板ヘルニアの診断を受けた時には、陸上部やジムで鍛えあげた身体への自信が大きく崩れ去ってしまいました。

 

言葉にできない激痛と他人感覚の右足で苦闘しながら、杖をついてやっと立っているのが精一杯の私の姿に、両親をはじめ家族全員が困惑している様子が伺えました。

 

「右足の歩行困難を何とかしたい」と専門の治療院を探す毎日となり、評判が良ければ静岡や千葉など遠方にまで出向いて施術を受けました。

 

鍼灸はもちろん、カイロプラクティックやホメオパシーなど数種類の治療を受け続け、様々な治療経験をしたおかげか2か月半後にやっと10m杖なしで歩けるように・・・。

 数ヶ月が過ぎた頃、今でも忘れることのできない「3.11東日本大震災」を大学病院の手術室で私は経験することとなりました。

 

震災の影響で当時通っていた都内の整骨院が閉院して治療が受けられず、3月の寒さで冷えも加わったために腰痛が悪化。気持ちの面でも限界にきており、仕事を続けるか、自分の将来の為にも治療に専念するか、決断を迫られていました。

 

そして、治療院を再び探し求めてたどり着いたのが、母親が取っておいたタウンニュース誌で紹介されていた「おがさわら治療院」だったのです。

 

マッサージとも違う、優しく触れながらの治療に初めて出会いました。根本改善を目指す治療という割にはあまりにも優しすぎると思いましたが、確かに施術を受ける前とは身体の感覚が違い、施術後は身体全体が軽くなっていました。後で知ったのですが、私の身体に対して急激な変化はあまり良くないので、身体への負担を極力減らすという施術方針だったそうです。

 

施術に当たってくださった先生から、どうして私の右足片側に麻痺が生じたのか?仕事の動作姿勢から起きていた歪みをわかり易く説明して下さり、改善姿勢と痛みの対処法を同時に指導してもらい、初めて今までに感じたことのない安堵感が得られました。

 

この時、この治療院でなら私の腰痛を完治へ導いてくれるのではないかと閃きました。そして職場の上司にも相談した結果、ヘルニアによる腰痛を根本的に治すためにもこの治療に専念しようと退職しました。

 

「退職しました」と、施術中に新垣院長に伝えたところ、「退職して今後仕事を探すなら、この腰痛の経験を活かしてみたら?」と、同じく腰痛経験から施術家になったという小笠原総院長、新垣院長から声をかけて頂き、「歩ける幸せを知った」私は迷うことなく整体師としての歩みを始める決断を下しました。

 

整体師として再スタート後は、自分で自分の身体のケアができるまでに回復しました。

ほぼ毎日症状が生じていたヘルニアによるしびれも収まり、4年間全く走れなかった状態から再起して再びランニングを始めています。

 

現在は、陸上競技で培った身体を動かすという感覚を整体に活かし、歪みが改善して痛みが和らいだ後にどのように身体を使えばよいのかを研究しております。

 

ポールウォーキングやポール体操の指導を治療院から担当させていただき、歪みを整える整体だけではなく、筋肉の柔軟性と血流の関連、筋力アップなどの自分自身がしっかりと出来なかった腰や身体の痛みに対するリハビリを強化して、腰・膝・足の痛みに苦しまれている方を特に応援したいと思っています。

 

スポーツ愛好家の方は、どんな些細なことでも構いませんので私たちに相談してください。

 

おがさわら治療院・整骨院

施術スタッフ 川島 雄太郎

HOMEに戻る                        このページのTOPに戻る